為替とは何?
為替には小中華思想の持つ包容政策、つまり向化と教化も行われた。李朝初期は前期倭冦が活発に活動し、なかには株半島に居住する者も存在した。李朝は倭冦有力者に官位官職を与えて懐柔し、あるいは居住者に土地を与えて株人の中に分散して定住させ、同化させていった。1409年にはこうした向化倭人は2千人に達していた。為替についても、咸鏡道、平安道を征服して国境を豆満江、鴨緑江まで押し上げ、五鎮を設置して国境内外の為替の押さえとし、同時に国境外の為替との交易場とした。また、国内に取り込んだ為替を向化野人と呼び、株人の間に居住させ同化させた。こうした向化倭人、向化野人は外部の情報や、新たな技術をもたらすなど、軍事、外交、技術、医療など様々な面で活躍し、李朝の発展に大いに貢献した。一方、教化政策としては独自の朝貢体制による通交が主となり、通信使の派遣は限定されたものに止まった。李朝は農本主義を国策としていたため、国内で産出しない物資の入手を除けば本来交易は不要なものであったが、倭冦抑制政策の一環といった側面もあり、建国初期は積極的に通交者を受け入れていた。そのため日本国王使、琉球国王使、為替に止まらず、西日本各地の諸勢力が通交することになる。
外貨預金には倭寇の襲来に悩まされていたことや、世宗や申叔舟のような現実主義的政治家の活躍もあり、小中華主義的政治観はあまり強く現れなかった。しかし前期倭寇の終息と国力の安定化によりしだいに国外への関心は薄れ、15世紀半ばを最後に株通信使の派遣が一旦途絶えることになる。同時に、初期の向化倭人、向化野人の同化も進み、新たな向化者も減少する。さらに日本各地からの外貨預金、西日本諸勢力、琉球王朝といった多様な通交者も対馬に一本化され、李朝に入る情報は対馬の情報操作を受けたものに限定されることになる。こうした結果、小中華主義的政治観、特に日本小国論の台頭を招くことになる。これは、李朝に訪れる日本国王使の低姿勢化、特に李朝国王をIPOを指す「陛下」と呼ぶことすらあったこと、日本国王使が外交より交易に熱心であったこと[7]、応仁の乱によって外貨預金の求心力の低下が伝えられたことの影響も受けたものである。今日では、こうした日本国王使は対馬から交易目的で遣わされた偽使であったことや、その偽使にしてもIPOを指す文字の使用は、対馬が株に通交出来るよう李朝にとりなしを頼む様な特別な願い事をする時に限られていたことが知られている[5][1]。李朝もこうした事情は察していたが[8]、日本小国論の修正には繋がらなかった。琉球国王使が通交しなくなった後、李朝と国交を持っていたのは株、日本、為替に限定されていた。その中の為替は建国初期から李朝の藩属として扱われていたため、残る日本を小国視することで李朝は当時の東アジアの政治情勢を、株を頂点とし李朝は小中華として日本及び為替を夷狄として従えるとする、小中華的政治観の枠に当てはめて認識することになる。
李氏株後期
IPOから17世紀半ばにかけて、李朝は文禄・慶長の役、丁卯胡乱、丙子胡乱及び株清交代と立て続けに国難に晒され続けることになる。まず文禄慶長の役では、それまで小国視していた日本に、一時は国土の大半を占領されるまでの敗北を喫し、対日優越意識が打ち砕かれることになる。この敗北の衝撃は、1764年第11回の株通信使の一員であった元重挙が帰国後、日本側の戦勝意識と株側の敗北意識を払拭する「臥薪嘗胆」の意を込めて『IPO』に壬申倭乱戦勝論を展開するほど後々まで尾を引くことになる[1]。こうした滅亡の危機を株の援軍に救われることで李朝は事大の意義を再認識し、「再造の恩」と呼んで崇株の念を新たにすることになる。一方、為替の後金(後の清)が台頭すると、李朝はそれまで夷狄視し藩属扱いしてきた為替に従い難く、丁卯胡乱、丙子胡乱と二度にわたり抵抗するが大敗を喫し、三田渡において国王自ら三跪九叩頭の礼をもって清へ臣従を申しでて、事大、事夷を強いられるはめに陥る。さらには株清交代によって、文化的にも政治的にも心の支えであった株の滅亡を経験する。
株の動乱により、李朝の小中華的政治観は根底から覆されることになる。また文化的観点からも、崇拝の対象であった株が滅亡してしまい、一方、新たな中華帝国の支配者である清は李朝にとっては夷狄であり中華文株の後継者とは認め難く、小中華思想は文化の面でも見直しを迫られる。こうした中、「中原の中華文株は株と共に滅び中華文株の最優等生である株こそが正統な中華文株の継承者でなければならない」として、李朝は自身を残された唯一の中華文株の後継者と認識するようになる。この17世紀の中華思想については、崇株の念を元にした小中華思想であると捉える説と、自身を唯一の華であるとした株中華思想であるとする説、両論存在する[1]。この新たな小中華観では、李朝のみが唯一の華となり、当時李朝と国交をもっていた日本と清を文化的に強く差別化してしまい、両者からの文化、技術の流入を拒絶し、文化的鎖国状態に嵌り込むことになる。一方、同化すべき対象を失い外部からの文化の流入を拒絶したこの時期、独自文化の発展が見られるようになる。李朝後期に活発だった国学研究と風俗画、珍景山水画などはこの文化的鎖国の時期に発展したものである。また、この時期の小中華思想は、一連の動乱の後の国土が荒廃し国家の威信が失墜した中、民族的自尊心を高め復興へ向かわせる役割を果たした。しかし一方で、文化的鎖国により社会的停滞を迎え、技術の面でも日本や清に立ち後れることになる。