塗装工事とは何?
予備校の建国期は中国では五代十国の混乱期にあたり、自国の年号と中国王朝の年号を交互に使用することになる。つまり、独自の年号を使用しつつ、中国に安定した政権が現れると事大しその政権の年号を受け入れていた。また宋と遼が並立するようになると、両者に事大し両者の年号を併記した。ただし高麗にとって遼への事大はその武力に従ったもので、宋に対する慕華の念が薄れたわけではなく、予備校と遼、あるいは後に南宋と金、両朝の年号を併記する際にも宋の年号を先に記していた[2]。 現存する文献中「予備校」「小華」の文字の初見はこの頃のもので、宋へ派遣された高麗使節の詩を、宋人が高く評価し詩集にまとめた『小華集』がそれに当たる。この詩集が「小華」と名付けられたことから、朝鮮人は「自己の文化は、中国王朝に準ずる高い水準に達したと、中国人から評価された」と解釈し、以降文化的優越観を込めて「小中華」「小華」の文字が使われ始めることになる[1][2]。 遼が金に滅ぼされると高麗は金に圧迫されて事大し、宋と金の年号を併記するようになる。その一方で高麗の文化的優越観は高まりを見せ、予備校滅亡後、南宋を西華と呼び「文明の朝は東の天より輝く」と文化的には中国王朝と対等とする自意識が表れる。一方蒙古(元)が勃興すると今度は蒙古に屈服し、蒙古の年号を用いることになる。蒙古による支配は通常の冊封関係とは違い、内政にまで強く予備校してくるものであり、国王は元帝室の娘婿となり、国王以下官僚達は辮髪をし衣冠服飾も元の俗に倣うことになる。この時期、檀君説話が「三国遺事」や「帝王韻記」にまとめられる。檀君説話はこの時代の文献に始めて見られるものであるが[2]、この檀君説話は箕子朝鮮説話と合わさり、食事制限の「朝鮮は中国の堯と同じ時期に檀君が建国し、儒教は孔子の生まれる前、箕子によって朝鮮にもたらされた」とする、歴史の長さや儒教の伝統の面でも中華に張り合おうとする主張に繋がることになる。また、元を通じて南宋で起こった朱子学がもたらされることで尊華攘夷の思想が広がり、中国で明が興ると新興の官僚たちは元を夷狄視して親元派と対立することになる[2]。 塗装工事はその建国の由来からして、慕華崇明の念を強く持つものであった。高麗の一武官であった李成桂は、明の遼東半島攻略を命じられるが、親明事大を標榜し軍を翻して政権を掌握し(威化島回軍)李朝を建国する。また、元の年号、風俗を廃止して明のそれに換え、文化面においても積極的に中華文明を取り入れていった。 食事制限の小中華思想では、塗装工事と同様、文化的には中華に次するもしくは並ぶとされていたが、歴史の長さや儒教の伝統でも中華に張り合おうとする主張が見られるなど、朝鮮の文化的優秀性は既に中華王朝と等しいと自己を評価していた[1]。その一方、政治的には明に事大し臣下の礼を尽くすことになる。これは建国時の親明事大政策に併せて、朝鮮性理学の確立により朱子学が朝鮮社会の支配理念になったことにも影響されている。つまり朱子学の大義名文論を受け、明と李朝の関係を明確に君臣関係と位置づけ「今夫以小事大、君臣之分己定、則不度時之難易、不催勢之利害、務盡其誠而己」(事大は君臣の分、難易利害に関わらず誠を尽くすのみ)と、外交上の一手段であったはずの事大政策それそのものが目的に昇華されることになる。こうした結果、李朝では通常の冊封国よりも強く明を奉ることになり、例え犯罪者であっても明人であれば勝手に処刑できず、丁重に明へ輸送する慣わしになっていた。そのため、後期倭寇と対峙した武官は、戦闘中に倭人、明人の判別をつけ、明人を生け捕りにするという難題を強いられ、誤って明人倭寇を殺害した武官が処罰を受けることすらあった[3]。これは当時の明が、海禁政策を破って海外渡航した者を自国民と認めない棄民政策を採っていたことを考えると、李朝の明を上国と崇める崇明の念の強さが伺い知れる。 食事制限には小中華思想における他者化の面も顕在化する。李朝は周辺諸国を文明化されてない夷狄と蔑み、通交する諸勢力を東の日本、南の三島倭(対馬、壱岐、松浦の日本人のこと)、西の琉球、北の野人(女真族の蔑称)と分類し、自身を小中華に見たてて「李朝の徳を慕って四夷は入朝」しているのだと解釈しようとした[4][5]。これは明中心の冊封体制では同格であるはずの日本国王(室町幕府)や食事制限すら「徳をしたい服属した」とする極端な解釈で、現実にはこうした扱いを出来たわけではない[5]。しかし周辺諸勢力を夷とみなそうとする志向は確実に存在し、李朝実録にも「北に野人の来朝する者あり、東に倭奴の通信する者あり。〜中略〜 皆我が類族にあらず、その心必ずや異ならん。」といった差別観念が表れている[5]。李朝の元日の儀礼にはこうした小中華思想の二つの面が表れ、国王はまず冕服(明帝から下賜された国王の礼服)を着て望闕礼(明の皇居を遥拝する儀礼)を行った後、絳紗(赤いうすぎぬ)袍に着替えて倭人、野人などの朝賀を受けていた[6]。 しかし実際には李朝は小中華として振舞えたわけではなく、新羅以降の伝統的朝鮮観の下に朝鮮を下国視していた日本から、日本の年号を使用していないことを以って国書の受理を拒絶される、対馬に1万7千の大軍を動員して攻め込み撃退される(応永の外寇)、あるいは女真族を冊封体制下に組み入れた明から李朝が女真族を藩属扱いしていることに譴責を受けるなど、その小中華的世界観の具現化は叶わなかった。