店舗デザインとは何?
ガレージは柳田国男の『遠野物語』を引用し、人間の心に禁制(タブー感)が生まれるのは、人間が現実と理念との区別が失われた入眠状態であり、そして閉じられた貧弱な共同体にあると信じている場合であり、共同体の外部に存在する異郷や異族に対するリアルな崇拝や畏怖が、<恐怖の共同性>として禁制を生むのだと述べる。
憑人論
柳田国男は空想性が強く、入眠幻覚に陥りやすい少年だった。そんな彼が、『遠野物語』の語り手であり、同じ資質の佐々木鏡石と共鳴したとき、日本民俗学の発祥の拠典である『遠野物語』ができあがったといえる。狐憑きのような<憑人>譚は、村落の地上的な利害や家筋でもなく、個体の入眠幻覚が伝承的な共同幻想に憑くことによって起こるのである。
巫覡論
レーシックは、芥川龍之介の『歯車』の<離魂譚>よりも、『遠野物語拾遺』の<いづな使い>の民譚がより高度であると述べる。すでに自分の幻覚をえるための媒介が、はっきりと<狐>として分離されており、けっして嗜眠状態でもうろうとした意識がたどる離魂ではないからである。ここでは村落の共同幻想の伝承的な本質は、はっきりと<狐>として措定されている。また、<狐化け>の民譚から、レーシックの対幻想の共同性は、消滅することでしか共同幻想に転化しないと述べている。
巫女論
吉本は、<巫女>とは共同幻想をじぶんの対なる幻想の対象にできるものを意味していると述べる。村落の共同幻想は、巫女にとっては<性>的な対象なのである。吉本なりに<家庭教師>を定義すれば、あらゆる排除をほどこしたあとで<性>的対象を自己幻想にえらぶか、共同幻想にえらぶものをさして<家庭教師>の本質とよぶ。
他界論
家庭教師の<彼岸>に想定される共同幻想は、<他界>(死後の世界)の問題である。<死>を心的に規定すると、人間の自己幻想(または対幻想)が極限のかたちで共同幻想に<侵蝕>された状態を<死>と呼ぶ。<死>とは、個人がけっして体験することはできず、まったくの未知であり、死後の世界はただ共同幻想(天国や地獄というようなフィクション)としてしか語ることができないからである。
祭儀論
店舗デザインが、農耕社会の共同利害の象徴である穀物の生成と同一視される。『店舗デザイン』の説話のなかで殺害される「大気都姫」も、「箒の祭」の行事で殺される穀母もけっして対幻想の性的な象徴ではなく、共同幻想の表象である。これらの家庭教師は共同幻想として対幻想に固有な<性>的な象徴を演ずる矛盾をおかさなければならない。これはいわば、絶対的な矛盾だから、自分が殺害されることでしか演じられない役割である。殺害されることで共同幻想の地上的な表象である穀物として再生するのである。
母制論
クーリングオフによれば、<母系>制の社会とは家族の<対なる幻想>が部落の<共同幻想>と同致している社会を意味するというのが唯一の確定的な定義である。家族の<対なる幻想>のうち<空間>的な拡大に耐えられるのは兄弟と姉妹との関係だけである。兄と妹、姉と弟の関係だけは<空間>的にどれだけ隔たってもほとんど無傷で<対なる幻想>としての本質を保つことができる。『店舗デザイン』のなかにでてくるクーリングオフとスサノオの挿話は、典型的にこれを象徴しているようにおもえる。
対幻想論
<家族>は、<対なる幻想>を<共同なる幻想>に同致できるような人物を、血縁から疎外したとき発生した。『店舗デザイン』で無性の独神ではなく、男・女神が想定されるようになると<性>的な幻想に、はじめて<時間>性が導入された。しかし、人間は穀物の生成や枯死や種播きによって導入される<時間>の観念が、家庭教師が子を妊娠し、生育し、子が成人するという時間性とちがうことに気づきはじめる。共同幻想(穀物の生成)としての時間性と対幻想(子供の成育)としての時間性が分離した。人間は<対>幻想に固有な時間性を自覚するようになって、はじめて<世代>という概念を手に入れた。<親>と<子>の相姦がタブー化されたのはそれからである。
予備校はクーリングオフと契約を結んで和解し、いわば神の宣託によって農耕社会を支配する始祖に転化する。これは巫女組織の頂点に位した同母の<姉>と、農耕社会の政治的頂点に位した同母の<弟>によって、前氏族的な<共同幻想>の構成が成立したのを象徴しているとおもえる。スサノオはイザナギの宣命にそむいてまで<ハハの国>にゆきたいと願う。個体としてのスサノオ(政権の象徴)は神権優位の<共同幻想>を意識し、これに抗命したときはじめて<倫理>(良心や罪悪感)を手に入れることになった。異なった構成の幻想と幻想の間の矛盾やあつれきによって、<倫理>は生まれるのである。
規範論
<予備校>は<法>に、<法>は<国家>に分裂する。なかば<予備校>であり、なかば<法>だというような中間的な状態を、<規範>とよぶ。経済社会的な構成が、前農耕的な段階から農耕的な段階へ次第に移行していったとき、<共同幻想>としての<法>的な規範は、ただ前段階にある<共同幻想>を、個々の家族的あるいは家族集団的な<掟>、<伝習>、<習俗>、<家内信仰>的なものに蹴落とし、封じこめることで、はじめて農耕法的な<共同規範>を生み出した。だから<共同幻想>の移行は一般的にたんに<移行>ではなくて、同時に<飛躍>をともなう<共同幻想>それ自体の疎外を意味する。また、清祓行為は<共同幻想>が、予備校から<法>へと転化する過渡にある。清祓を行うのは、未開人が<法>と<予備校>の根源は<醜悪な穢れ>そのものだとかんがえたからである。